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2008年10月 8日 (水)

日記081008

081008
昨日は藤澤氏と飲み食いしながら、建築の計画案や、近況などについて話をした。
脚立と椅子を長岡に送るかどうするか、早く決めないとね。
案については、改めて考えましょう。
自分自身で進めているいくつかの計画案に関して、ちょっと思ったこと。
最近の僕の思考の傾向として、モノ寄りに傾いている。昔のことを思い出すと、あまりモノに近づかないようにしていた、と思う。コンセプト、概念こそが重要であり、モノの存在感は、なるべく生々しさを消去、脱臭したいと思っていた。が、今やすっかりモノから発想を進めるようになった。じつは僕のこの傾向は、建築についてだけではない。ほかの芸術全般に関しての嗜好もそうなってきている。かつては、映画、映像芸術を最も好んでいた。写真は、昔も今も好きだが、昔はそのイメージの強度にこそ興味があり、プリントの質や空間の中での存在感は二の次であった。写真集でも十分であった。だが、今は空間の中での存在としての写真を好む。アートについても同様で、今はまったくもってタブローとしての絵画、オブジェとしての彫刻にこそ感じ入る。思想、言葉、をメインとしたコンセプチュアルなアートも、もちろんすばらしいものはそうなのだが、プレゼンテーションとしての説得力がないと面白く感じにくい。
モノの強さを改めて理解し、共感しているところだ。
モノにこだわりすぎるのは、今でもうっとおしいとも思う。
モノは、残る。ゴミになるかもしれないが、それでも残る。
ゴミになったらなったで、心のどこかにやましさが残るが、それはそれでよいのだ、と思うようになった。
モノはモノとして流通する。それはよいことだと思う。
肉体を持った人が、いろんなものを背負いながら生き続けていくのと同じように、不自由なんだけれど、でも、確実に存在する。それを肯定する。
それが、人の歴史なんだと思う。

いま、目に見えなくなったマネーが、目に見えないまま増えて、暴れて、急激に消滅し、大勢の人の人生を翻弄し、世界を混乱に陥れている。
マネーが目に見えない存在になってから、マネーは肉体を持たない、重さのない、コンセプチュアルな存在となった、ように思う。
そんなマネーによって、モノはどうなっていったのか。
僕の生活している世界においては、量として、モノは、ほとんどがツマラナイモノになってしまったように思う。とても残念なのは、家やビルや街も、ツマラナイモノばかりになってしまったことだ。
こうなる前の、マネーが、今よりずっと重さがあった時代に作られたモノは、残っているモノを見ると一目瞭然なのだが、モノとしてよっぽどましなのだ。
それらは、現代生活に合った便利さという点では問題がある点も多いのだが、人がそれを大切にしたいと思うような質を持っている分、よっぽどましなモノなのだ。
だから、ヨーロッパの古い町並みは残り続ける。
日本では、木造建築は、少し前のやりすぎなほどの洗練は多少失われるかもしれないが、木造建築としては残り続けると思う。これからはより性能がよく、耐久性があり、かつ味わいのある木造建築を作っていくべきだと思う。もちろんRCや鉄骨でも同じ。
家や街が、マネーのようにコンセプチュアルになってはいけない。それはそこに住む人を傷つけていく。

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